愛国者のための経済ブログ

経済を中心に論じて行きたいと思います。ヘリマネを財源ととするベーシックインカムによるデフレ脱却を目指しています。

デフレの場合には税金をタダにしてもいい

多くの人は、国家の運営に使われる歳出は税金によって賄わなければ
ならないと思っている。

しかし、デフレの時には全て貨幣の発行によって賄ってもいいのです。

いやむしろ、デフレの穴を埋めるためにはそうしたほうがいいのです。

実際に、明治の初めの頃には太政官札という政府紙幣を発行して
財源を賄っていた時代がありました。

私の尊敬する経済学者の丹羽春喜先生の論文を載せます。


 

維新の財政支出の94%をまかなった!


私は、十年も前から、現在のわが国の財政・経済危機を克服するためには、いわば明治維新のさいの「太政官札」(不換政府紙幣)発行の故知にならい、「国(政府)の貨幣発行特権」の直接的あるいは間接的な大規模発動を断行し、それにより事実上無尽蔵な国家財政財源を確保して、わが国を亡国の悲境より救えと提言してきた。

 しかし、この私の提言(ないしノーベル賞受賞者スティグリッツ教授の同様な提言など)への反論という含意で、「太政官札」とそれに続く「民部省札」および「新紙幣」など明治維新時の一連の不換政府紙幣の発行を、維新史の一大汚点だと決め付け、「太政官札の轍を踏むな!」と叫ぶ議論も、かなり声高に行なわれている。


 「太政官札」の発行を失敗ないし汚点であったとする明治維新史の見かたは、総じて、左翼陣営の歴史家たちのステレオタイプな姿勢である。しかし、坂本竜馬と三岡八郎由利公正)の夜を徹しての協議(慶応3年10月末)で基本方針が定められ、慶応4年(明治元年)2月から実施されはじめた「太政官札」の発行は、客観的に見れば、明治維新を成功させた決定打として役立った施策であったのである。


 王政復古(維新政府樹立)の大号令が発せられた慶応3年末から戊辰戦争が終わった直後の明治2年の9月までの期間をとって見てみると、維新政府は、戊辰戦争の戦費をも含めて5129万円の財政支出を行なっているのであるが、そのうちの実に94パーセントの4800万円が「太政官札」という不換政府紙幣発行の造幣益でまかなわれている(『明治前期財政経済資料集成』第4巻、48~61頁)。当時の維新政府は、まだ基盤が脆弱で、威令も十分には行なわれておらず、租税を組織的に徴収する力も弱く、まさに、累卵の上に立つような危ない状況にあった。したがって、戊辰戦役の戦費支出をも含む巨額の財政支出の94パーセントもをまかなった「太政官札」発行による造幣益が、もしも無かったとしたならば、維新政府は存続しえなかったにちがいない。すなわち、「太政官札」の発行を断行しえたことこそが、維新の大業を成功させた決定的な要因であったと、考えねばならないのである。

 

 


 

太政官札インフレなどは無かった

 

 

太政官札」の発行開始から2年後には小額紙幣として「民部省札」の発行もはじまったが、これも不換政府紙幣であった。明治5年からは、「太政官札」と「民部省札」は、印刷をいっそう巧緻なものとした「新紙幣」とよばれた紙幣に取り替えられたが、これも兌換紙幣(一定レートで金貨・銀貨への交換を公約している紙幣)ではなく、不換紙幣としての政府紙幣であった点では、なんら変わりはなかった。


 もちろん、維新政府の基盤が固まり、税収が増えるにつれて、毎年の財政支出政府紙幣の発券による造幣益に依存する程度は徐々に下がっていったのであるが、それでも、たとえば明治5年になっても、財政支出政府紙幣の造幣益に依存していた割合は、いぜんとして30パーセントにおよんでいた。しかも、これほどにも巨額の不換政府紙幣が発行され、その造幣益を財源として、文明開化のためのインフラストラクチャー整備や防衛力充実のための巨額の財政支出と諸産業への政府融資が大々的になされ、さらには、廃藩置県にともなう旧藩の藩札等債務の償還なども少なからぬ額で行なわれたにもかかわらず、当時のわが国の国内物価は西南戦争が勃発した明治10年ごろまでは、基本的には安定していたのである。

 明治元年の物価水準が、その前年の慶応3年の物価水準に比べて10パーセントも下がったあと、さすがに戊辰戦役の影響をもろ・・に受けた明治2年には物価の上昇がある程度は生じたが、それ以降はわが国の物価はむしろ下がり気味となり、明治4年ごろになると、物価水準は明治元年の物価水準とほぼ同じところに落ち着き、そして、明治10年の物価水準になると、それは明治元年のそれよりも8パーセント低く、慶応3年の物価水準と比べると18パーセントも低くなっていた(山本有造『両から円へ』、12頁参照)。なお、その後の西南戦争の戦費支出に起因する物価上昇は、明治11年ごろから生じたことであった。


 当時は、国内で流通していた不換政府紙幣と対外決済用の銀貨(メキシコ銀貨が多用されていた)との交換比率である「銀紙比率」の相場が、毎日たっていたのであり、これが現在の「為替レート」に該当しているわけであるが、この「銀紙比率」も、明治10年まではむしろ安定的であった。この時期で国内紙幣の銀貨に対する交換価値が最安値になったのは──すなわち、現在の感覚で言えば最も「円安」になったのは──明治7年のことであるが、そのときの「銀紙比率」でさえも1.038にすぎなかった。すなわち、わずかに3.8パーセントの相対的な「円安」であっただけであり、不換政府紙幣の価値暴落といった状況とは、全くほど遠かった。だからこそ、上記のごとく、わが国の国内物価は安定していたのである。

 

まさにケインズ経済学のセオリーどおり

要するに、「太政官札インフレ」などというものは無かったのである。ということは、明治初年のころには、徳川幕府倒壊による先行き不安から経済活動の萎縮いしゅくが生じ(江戸の街が灯の消えたようにさびれた)、マクロ的な生産能力の遊休、つまり、デフレ・ギャップが巨大に発生していたということを物語っている。すなわち、不換政府紙幣の大量発行を財源としてなされた文明開化政策や軍備近代化の推進などによる有効需要支出の大幅な増大に対応して、そのような遊休生産能力が稼動しはじめ、諸種の物資や商品の供給も順調に増えることができたからこそ、物価は安定していたのである。

 まさに、ケインズ経済学のセオリーどおりのプロセスが妥当していたということである。 驚くべきことに、由利公正は、ケインズ理論が体系化される七十年も前に、このようなプロセスを見通していたらしいのである。故村松剛氏の名著『醒めた炎』でも、「太政官札」発行による由利公正の財政政策が、まさに、そのように意義づけられているのである(同書、下巻、283~286頁)。

http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/ronbun/Meiziisin-seihusiheide-seikou-.htm