愛国者のための経済ブログ

丹羽春喜先生小野盛司先生に学びました。経済を中心に論じて行きたいと思います。ヘリマネを財源ととするベーシックインカムによるデフレ脱却を目指しています。

大東亜戦争はこうすれば簡単に避けられた

◆蘭印油田地帯の保障占領こそがベスト.オプションだった

しかし、当時、本当に、オプションは、たった三つしかありえなかったのであろうか? 四番目の、もっと有効で有利な国家戦略の選択肢がありえたのではなかろうか? 先年、亡くなられた村松剛教授は、生前、「……昭和十六年秋時点でのわが国にどっての最も有利なオプションは、蘭印(蘭領東インド、現在のインドネシァ)の油田地帯を保障占領することだったはずだ!そのような場合であれば、当時の米国の国内世論の状況から見て、米国のルーズベルト政権は対日全面戦争を発動しえなかったはずだ!」と、口ぐせのように、繰り返し繰り返し、言っておられた。実は、私自身も、ずっと以前から今日にいたるまで、同意見である。

「保障占領」とは、「特定の相手国による一定条件の履行を、間接に強制し確保するために行なわれる相手国領域の一部(ときには全部)の占領」(有斐閣『新法律学辞典』)のことである。つまり、昭和十六年当時のわが国は、領土併合の意図などは持っておらず、正当な代価を支払って石油を輸入しようとしていただけであるから、そのことを内外に明確に宣言したうえで、蘭印側に石油の対日輸出を承諾させ、その履行を促進・確保するためという限定された目的のためにのみ、わが軍が蘭印の油田地帯とその積み出し港地区に進駐すればよかったわけである。このためのわが軍の必要兵力としては、一個混成旅団ぐらいもあれば、それで十分であったであろう。そうすることによって、わが国は石油を十分に入手しうるようになり、戦略的に非常に有利な地歩に立つことができるようになっていたはずである。

当時、オランダは、本国がドイツ軍に占領されてしまっており、辛うじてロンドンに亡命政府が存続していたような悲境にあったから、米英両国が対日全面戦争を発起しえない状況であったとすれば、蘭印は、おそらく無抵抗でわが軍の保障占領をゆるしたことであろう。そして米国はと言えば、当時のわが国でもよく知られていたことであるが、リンドバーク大佐(大西洋を初めて無着陸横断飛行した英雄)などによる反戦運動が米国民のあいだで広範な支持をえており、米本土から遠く離れた東南アジアの一隅にすぎないオランダ領の島に小規模な保障占領が行なわれたぐらいのことでは、いかに反日的なルーズベルト政権といえども、対日全面戦争をはじめるなどということは、とうてい不可能な政治情勢にあった。

この点は、当代第一級の軍事史バーバラ・タックマン女史も強調して止まなかったところである(大杜淑子訳、『愚行の世界史』朝日新聞社、一九八七年刊)。もとより英国も、ドイツとの戦争で手いっぱいであったから、米国が起たない状況で、英国ひとり対日全面戦争に入るなどということは、ありえない話であった。

あの当時は、世界のいたるところで保障占領が行なわれていた。それも、米英両国が率先して、そ れをやっていたのである。昭和十五年(一九四〇年)の五月には英軍がアイスランドを占領している。翌年の昭和十六年(一九四一年)七月には(米国の正式参戦以前であるにもかかわらず)米軍もこのアイスランド占領に加わった。もちろん、これは、米英の戦時軍事行動へのアイスランドの協力を強制するためのものであった。同年(一九四一年)の五月には英軍がイラクを占領している。石油の確保と親英政権の樹立のためであった。さらに、同年の八月には英ソ両軍がイランを占領している(同国の北半分をソ連軍、南半分を英軍が占領)。

これも石油と対ソ軍事援助ルートの確保のためであった。だから、同年の秋に日本が蘭印の油田地帯の保障占領を行なっていたとしても、それは、当時では、とりたててシヨツキングなことでもなんでもなく、ごく普通の正当防衛戦略的な措置であると見なしうる程度のものであったはずなのである。だからこそ、ますますもって、米国としても、その程度のことでは、対日全面戦争に踏み切ることなどは、できなかったであろう。

言うまでもないことであろうが、前年の昭和十五年(一九四〇年)の夏、ドイツ軍の電撃作戦でフランスが屈服した直後が、わが国が蘭印油田地帯の保障占領を断行する絶好のチャンスであった。しかし、昭和十五年では、わが海軍の対米戦力比率がなお低く、万一にも、対米全面戦争になったといった場合には、善戦しうる見こみが立ってはいなかった。結局、昭和十五年夏のこの好機は見送られてしまい、わが国は、まず小林一三商工大臣を、次いで芳沢謙吉元外相を、特使として蘭印に送って・わが国への石油など重要物資の供給再開をもとめる交渉を行なったにとどまったのである(蘭印 はそれを拒絶した)。

しかし、昭和十六年の秋から年末にかけての時期の状況は、その一年前と比べると様変わりであったはずである。なぜならば、わが海軍の対米戦力比率が大幅に上昇していたからである。大和と武蔵の両超弩級戦艦は完成に近づいていたし、新鋭大型空母の翔鶴と瑞鶴が完成・就役したのである。太平洋水域においては、わが海軍力が米海軍力を上回ったとさえ言いうるほどになった。もともと、その年の十二月には米英蘭に対する全面戦争に突入する決意で戦備を急いでいたのであるから、わが国が蘭印油田地帯の保障占領を行なったことに触発されて、もしも米国が対日全面戦争を発動してきたとしても、いわば、もともとであって、わが国としては、既定の作戦計画と戦備に基づいて対米英戦争を戦いはじめれば、それでよかったはずのことであった。

このように、どう考えてみても、昭和十六年秋の時期においては、蘭印油田地帯の保障占領の断行ということが、当時のわが国にとって最も合理的で有利かつ容易な国難打開の「決め手」ともいうべき国家戦略であったはずであり、それを実行してさえいれば、「ABCD包囲陣」を無効にすることができ、それでいて、対米英戦争への突入という悲劇的な事態も、回避されえたにちがいなかったのである。

しかも、よくしらべてみると、昭和十五年の十二月に天皇陛下のご裁可をえて発効した昭和十六年度の「陸海軍年度作戦計画」には、蘭印だけを占領し、アメリカやイギリスの領土には手をふれないことにしたところの、対蘭印作戦案が示されていたのである。それを、少し手なおしすれば、上述の ような蘭印の油田地帯ならびに石油積み出し港地区のみを対象とした保障占領という、当時の米国民の反日感情への刺激を相対的に少なくしうるという意味でいっそう合理的な作戦案に、なりえたはずである。

にもかかわらず、昭和十六年の秋という決定的に重大な時期のわが国において、しかも、陛下が「国策の根本的再検討・再吟味」を指示された「白紙還元のご詫」を下されたにもかかわらず、なぜ、この最も有利な第四のオプションが立案・提示もされず、考慮もされなかったのかということが、きわめて大きな疑問点・問題点とならざるをえないわけである。

当時の閤僚や高級軍人たちが戦後になってまとめた数多くの回顧録のたぐいを見てみても、かれら昭和十六年の開戦決定に参画した当時のキー・パーソンたちは、戦後になってさえ、開戦直前の時期のわが国には蘭印油田地帯のみを対象とする保障占領というきわめて有利な第四のオプシヨンがありえたのだということに、全く気づいていなかったように思われるのである。まことに不可思議きわまる痛恨事であったと言わねばならない。

(私の意見)
上記は私の師である丹羽春喜教授の著書の引用である。人間とは不思議なものでどんなに頭のいいエリートであろうと単純な事に気がつかない事があるものである。あるいは、意図的に気がつかなかったのであろうか。大東亜戦争はこれだけで避ける事が出来たのである。